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「最果てのアジールー日本列島に生きるということ」(上)
アジールとは歴史的・社会的な概念であり「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する(wikiより)。


昨日以上に論理的でない、むしろ幻想の類に近い、自分の「日本人論」を語らせて頂きたいと思います。
ですから教科書や学術書的な正確さは反映しておりませんので、その点は予めお断りさせて頂きます。
約二百万年前、アフリカで生まれた人類は世界各地に散っていきました。
その中で一番最果てまで歩いた人類が最初の日本列島の住人となりました。もっとも当時は列島ではなく大陸と地続きでしたが。
人類は生き残ることに貪欲でした。生き残るために世界各地に散っていきました。現在の東南アジア方面に散って行った人類は海に突き当たっても更に貪欲に東に進みました。その向こうに島が見えなくとも。その最果ては遂には南米大陸直前のイースター島周辺まで辿り着きます。
日本列島に住み着いた人々の中でも恐らく気候変動もあって更に北に向かった人々がいました。
彼らは遂には寒冷期で氷の回廊で繋がっていたベーリング海を越え、北米大陸に入っていきますが、この旅路は明らかに「一方通行」であったため、原日本に残った人々とは明らかに一線を画すことになります。


さて、寒冷期が終わると急速な海面上昇で日本列島は大陸から切り離されていきます。
それでも当時の少ない日本列島の人口を支える資源は十分にあり、三内丸山遺跡の規模を見ればわかるとおり、日本の縄文期は当時の世界的に見てもそれなりに発展していました。
森林資源も豊富で、例えば自分の住んでいる地域だと、広大な広さを誇る濃尾平野も大半は森林に覆われており、現在岐阜城が聳える金華山周辺まで原生林に覆われていたと考えられています。
状況が劇的に変化したのは縄文晩期の小氷河期でした。縄文の人口は激減し、生き延びた人々も日本列島からの離脱を試みたことでしょう。
現在中米やインドネシア・ポリネシアで時折縄文土器に酷似した土器が出土するのは海流に乗って日本列島を脱出した人々の名残なのだろうというのが自分の考えです。
最後の寒冷期が終わった時、日本列島に住む人々は自分たちがそれなりの広さがあるとはいうものの、自分たちが大陸から孤立していることに気付きました。
ここに誕生したのが現代の日本人に直接繋がる「原日本人」だと自分は定義しています。
近年の発表では現在の遺伝子的な「原日本人」とは、東北・北海道・九州南部・沖縄と、綺麗に蝦夷アイヌ・隼人・沖縄人と綺麗に大和朝廷から「まつろわぬもの」扱いされた地域ですね。
それでは「日本には縄文系と弥生系の二つの民族が存在するのか」ということになりますが、自分がこの論で述べたいのは遺伝学的な話ではなく、この「世界の最果て」の列島に住むことになった人々そのものとなります。


まず先に結論から述べます。
自分の持論とは「日本人」とは「最初からいたもの」も「後から来たもの」もまとめて「日本人」だというものです。
本来的には、民族の混淆には戦争がつきものとなります。
実際古代日本においても「前からいたもの」と「後から来たもの」は一定程度の衝突は起こったでしょう。その考えを最も先鋭化させたのがいわゆる「騎馬民族征服説」ですが、今日の考古学上ではほぼ否定されているといっていいでしょう。何故かといえば、古代の遺物の変遷に「ある時期から突然、以前は存在しなかった特定の遺物が増える」という現象が認められないからです。
勿論遺伝子が示す通り、縄文人たちの住むこの列島に中国大陸から、朝鮮半島から大量の人間が流入し、稲作文化という「生きるため」という根元的な生活様式を持ち込んだことにより、最終的に縄文人より多数派になったことは疑いありません。それでは縄文人たちの痕跡が蝦夷や隼人たちの中でしか残っていないかといえば答えはノー、というのが持論の肝となります。
古代においては場所的隔離は時間的隔離と同義でした。
ましてそれが海で囲まれ、その島国の中でも山一つ越えれば別の国状態だったこの日本では強固なものでした。
その結果、古代の中東やヨーロッパ、西部アジアにみられる民族大移動による先住民族の駆逐は、日本では発生せず、ごく少数ずつしか流入してこれなかった渡来人たちを縄文人たちは徐々に取り込んでいき、同化していきました。
蛇足ですが、地理的隔離のある北海道アイヌや沖縄はともかく、蝦夷と隼人に対する大和朝廷の「討伐」という事態が生じたのは、隼人に関してはあまりの排他性ゆえに(それこそ幕末の薩摩藩の時代まで「余所者」を一切拒む気質が「緩やかな同化」という日本列島各地で起こった現象を拒絶した)、蝦夷に関しては稲作文明を必要としないまま、そして外来人たちを受け入れぬままほぼ純化状態で、中央に律令国家が成立し、その強力な軍事力を背景とした「新しい体制」からの押しつけに抵抗したが故に長期の反乱がおきたのでしょう。
それでも現在の遺伝子調査で分かるように、大和朝廷は縄文人たちの末裔を絶滅させることはしませんでした。もっとも「俘囚」として日本各地に強制的に移住させた形跡は様々な遺跡や文化的な形で残ることになります。


さて、本筋に戻って。
ひとたび古代国家が成立し、隼人や蝦夷が平定されてしまうと、日本列島の民族的構成は殆ど変動することはなくなりました。
もしモンゴル帝国に日本が侵攻されていれば少しは変動があったことでしょうが、幸いにしてそんなことにはなりませんでした。
それでは全く日本列島へ多民族の流入がなかったかと言えばそんなことはなく、大陸や半島で国家が崩壊するたびに「最後の逃亡先」を日本列島に求めました。
日本人は彼らが伝えた文物を巧みに取り入れました。
高僧たちが文化・宗教面で新たな文化をもたらしたのは周知のことですが、大陸や半島由来の神社や地名、文化が日本各地に残っていることから、一般的な流民――少なくとも亡国の折、その地に住まうことを許されなくなった人々も相当数取り込んでいたのが窺えます。
もっとも日本列島という「世界の最果て」での時間的・場所的隔離は、必然的に彼らの「日本人」への同化を促しました。
もっとも彼らが「同化」を拒めば、必然的に彼らなど「最初からいなかったこと」にされたのは、同じ日本人の間でさえ「村八分」という制裁が加えられたことからも明らかであり、それこそが「最果てのアジール」の掟でもありました。
さて、こうして「日本列島に住まうもの」という意味での「日本人」が誕生します。
この民族はその成立過程と地理的条件により、世界でも特異な精神構造と文化を持つことになりますが、論が長くなりましたので明日以降に続きます。