まどマギのマミさんってメンタル弱いし付き合ったらすごい面倒臭そう

[雑記]

昨晩はWOWWOWで「シン・ゴジラ」のテレビ初放送を視聴。
やっぱり凄いですね、この作品。劇場でも当然そうでしたが、テレビサイズに映像を落としても見終わった後の疲労感がとんでもなく凄い。
これほどまでに観客に緊張を強いて、なおかつそれが大ヒットする映像邦画は当分出てこないでしょう(多分庵野監督自身でも無理かと)。
話は唐突に飛ぶようですが。
当ブログの管理人はアニメ・SFマニアである以前に歴史マニアですが、少々趣向が偏っていて「外国人から観た日本及び日本人」に関する記述を徹底的に収集しています。
特に幕末明治初期がメインで、この時代に関して云えば、現在普通に手に入りうる「来日外国人が見た日本及び日本人に関するテーマ」の本なら殆ど手元にある筈です。といっても、全部で百冊までは届かない筈ですが(大版本の一部は流石に値段が高いのと新品はおろか古本でも滅多に流通していないものがあるのでそういう本は図書館で借りて済ませてますし)。
要するに「日本人を外の世界から見るとどう映ったのか」をメインテーマに据えてるわけですが。
外国人の視点で幕末明治初期の日本及び日本人の記述を読むと「変わってしまったもの」「変わらないもの」があって、そこが面白くて収集を続けているわけですが、その文脈でみると「君の名は。」がアジア圏をメインとしつつも世界的にヒットしたのに対して「シン・ゴジラ」が日本オンリーのヒットに止まった理由が見えてきまして、興味深いなと。
単純に表層的なところで云うと「シン・ゴジラ」は従来の「ゴジラ」シリーズの延長と捉えるのではなく、リスペクトしつつもむしろアニメ的な文脈から「トップを狙え」から変わらない庵野監督が描き続けている作品の延長戦上にあると解釈するのが妥当なところですが。
では、そこで描かれているのは何かとなると「日本という社会を形作ってきたものは何か。そしてその社会の中で日本人はどう生きてきたのか」というところに行き着く事になると考えます。
一昔前の歴史家の主流的な考えに「技術革新によって距離という壁が取り除かれた世界はいずれ平準化して均質的なものになる」というのがあって、現にインターネットの普及はそれを急速に後押ししているものの、現実には「宗教」と「民族」の壁が深いところに横たわっていていまだ世界各地で紛争が絶えないわけですが、日本の場合「宗教」や「民族」の概念が他国より薄いのに対して「島国という地理的な隔絶」が我々日本人が普段意識している以上に深層心理に働いている模様で。
もっともこの「隔絶」という考えが間違いだと主張する歴史家も多く(最近の具体例だと歴史の教科書から江戸期の「鎖国」の概念が消されるそうですが)、自分もそれを一概に否定はしませんが、自分が大学の頃に教わった先生にとある概念が好きです。
それは「世界の最果てのアジールとしての日本」という概念です。
アジールとは、歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味します。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」という意味合いで、日本でこの概念が語られる場合は概ね『中世に於ける社寺と社会との関係』が上げられ、日本史の教科書的に云うと「不入の権」がこれに相当します。
それを破壊して日本を「近世」に移行させたのが織田信長豊臣秀吉、そして徳川家康ということで、この辺を小説によく反映させたのが「花の慶次」の原作者である隆慶一郎先生の作品群なのですが、その辺は横道にそれるので置いておくとして。
自分の歴史論的には、もっと広い概念としての「アジール」を考えています。物凄く大雑把に云うとこの国は「世界の最果て」であり「最後の避難所」であるという考えです。要するに「吹きだまり」なのです、世界の最果てとしての。
つまるところ「最初から住んでいた者」も「後からやって来た者」も「これ以上先の逃げ場はない」ところに我々は住んでいるのだという認識です。
飛行機に乗りさえすれば簡単に海外に行けるようになった現在、更にもう百数十年ほど遡って蒸気船に乗れば海外に行けるようになった時代、つまるところ「近代」ですが、それ以前にこの列島に住んでいた人々は、意識的であるにせよ、無意識的にあるにせよ自分たちが「これ以上先の逃げ場がないところに住んでいる」と認識しており、それ故に「独自の世界」を築きあげてきたというのが自分の持論であり、その持論の裏付けですね、近世の「外国人から観た日本及び日本人」に関する記述を徹底的に収集しているのは。
長くなりすぎて、そろそろ誰も読んでくれていなさそうなので結論だけ先に語ると。
我々「日本人」は常に「崖っぷち」に立ちながら生きてきたのです。これ以上先に逃げ場はないのです。
それ故に広い概念での「日本人」(注.「近代」になって流れ込んできたチョウセンヒトモドキ等を除く)は、神という核心的概念も持たずに、これまた広い概念の「約束は破ってはいけない」という社会規範を持ちえたのだというのが自分の持論です。ちなみに。チョウセンヒトモドキの言語には元々「約束」を意味する単語がないことは一部で有名な話ですね。
で、ここでやっと最初の話に戻って。
シン・ゴジラ」を見て我々「日本人」は最後まで「日本」を諦めないで立ち向かっていく人々の姿に感動したわけですが、海外ではこの考えはストレートには通用しないのです。だってそんなに必死に立ち向かう必要なぞなく最終的には「逃げればいい」のですから。
いや、こういう暴論を云うと「ハリウッド映画だって侵略者に向かって立ち向かってるじゃないか」という反論が当然あるでしょうが、根源的なところでアレは違うのです。物凄く簡略化して云うとアレは「神の僕である我々に立ち向かう者を排除する」という極めて攻撃的発想が原点にあるのです。その対義語的に云うと「日本人」の発想は「降りかかる火の粉は払わなくちゃいけない」という言い回しに集約されるわけです。
本当に長くなったのでここらで切り上げますが、こういう観点で日本のアニメを見てみると面白いと思います。
一番有名どころで「このまんま」なシチュエーションなのは「マクロス」シリーズでしょうか? というか自分は「ガンダム」より「マクロス」の方に遙かに影響を受けていて、更に遡ると「ザンボット3」に至るわけですが、またこの話は改めまして。
駄文を最後まで読んで頂けた方、感謝いたしますm(_)m。