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[時事ニュースコーナー]

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【第2回】1905年9月5日 日比谷焼打事件
1905年8月29日。激烈を極めた日露戦争は、ポーツマスで締結された講和条約をもって終結します。
この条約で日本側が得たのは、樺太の南半分(実はこの時点で樺太全土を占拠していたので事実上の撤退)と大韓帝国に対する指導権の優位の確認などのみでしたが、戦費的にも人的にもこれ以上の戦争継続不可能だった明治政府は、この条約を受け入れます。
この時、講和条約が流れていたら泥沼の消耗戦に突入し、恐らく陸軍の前線の維持は不可能となり(ロシア陸軍が増強されつつあったため)、国家経済自体も破綻していた可能性が高いと考えられています。
にもかかわらず。
講和内容が一般に知らされた翌日、9月1日以降の国内各新聞の論調を見てみましょう。
大阪朝日新聞
天皇陛下に和議の破棄を命じ給わんことを請い奉る』と題する一文を掲げ
社説『閣臣元老の責任を問うて国民に激す』では
『然るに何事ぞ今回の講和条件。主客殆ど転倒し、彼和を請うにあらずして、我和を請うに至りなり』
《万朝報》
『彼(全権大使小村寿太郎)の帰朝の日には市民一切閉戸して顔を彼に背けよ』
《報知新聞》
『国民と軍隊とは全く桂内閣と小村全権に売られたり』
戦争継続一色です。
与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」と詠み国民に反響を呼んだことなど一顧だにくれません。
何故新聞社がこのような論調一色になったかといえば答えは至極簡単。
当時の新聞社は「戦争の勝利イコール莫大な賠償金の獲得」という論陣を前面に押し出して戦争を肯定し続けていたのです。
勿論大前提として、まず政府が国策として開戦を迫る論調を作り出したことは疑いようのない事実です。
実際上にあげた新聞社のうち、社主に黒岩涙香を戴く「万朝報」は、幸徳秋水らが記者として開戦反対の論陣を張り、圧倒的な開戦論と張り合っていました(但し、幸徳秋水らの退社後は180度姿勢を転換。好戦的な論調一色に)。
しかし。
政府の毒が効き過ぎたというべきか。
自分自身を納得させるための論陣を心底信じ切ってしまったというべきか。
新聞社は“現実”を全身全霊で“見ないふり”をして、国民を煽り立てます。
その結果。
東京の日比谷公園で開かれた講和条約反対集会に参加した民衆三万人が暴徒化。
焼失したのは、内務大臣官邸、講和賛成を論じた国民新聞社、警察署、交番のみならず。
平和回復に積極的だったキリスト教の教会を十三も焼き払ったのです。
神田ニコライ堂もロシア系教会だということで焼き討ちにあうところを、危うく近衛兵の護衛により救われています。
これにより東京は無政府状態化。翌9月6日、政府は戒厳令を敷き、ようやく事態の沈静化に成功。
後に残ったのは、混乱と空虚のみでした
マスコミが日本を滅ぼしかけたのはこの一件をもって嚆矢となります。
(続く)