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【第4回】本朝新聞事始め
日本における「新聞」の始まりは幕末に遡りますが、当初の読者層は極めて限定的でした。
新聞報道が一定の政治的影響力を持つに至ったのは、1874年、征韓論に破れた板垣退助らが提出した「民選議員設立建白書」が、発表の翌日『日新真事誌』に掲載され、反響を呼んだことに始まると考えられています。
紋切り型の歴史教科書ではここから「政府は民権運動の高まりを抑えるため新聞の発行を禁止した」などと展開することから、まるで明治政府が当初から新聞そのものを敵視していたような誤解を与えますが、事実は必ずしもそうではありません。
それどころか、1871年の新聞誌条例で『知識を啓蒙し、文明開化を推進し、読者の見識を広め、国家の施政に利益とすべし』とまで謳い、新聞の意義を宣揚しているのみならず、「誰にでも分かるような文章で書くように」と懇切丁寧な指導まで付け、果ては民間の新聞を買い上げ、各地に新聞の閲覧所を設け、広く国民の目に触れさせようとしています。
勿論、明治政府が「ただ善意で」国民を啓蒙していたかと云えばそうではなく、日本をいわゆる「国民国家」へと作り替えるためのプロセスの一つだったのですが、これについては本論とは外れますのでここでは省略します。
それでも明治政府が新聞を通じて「江戸時代とは異なり民衆は隷属するだけの存在ではないのだから、国家の政治の動向を知らなければならない」と積極的に民衆の意識を啓蒙しようとしていたのは事実なのです。
では、それは具体的にどのように新聞紙上で書かれたのでしょう?
民選議員設立建白書の翌年に政府から出された「立憲政体の詔」、つまり天皇が議決機関である左右両院を廃止し、元老院と地方官会議を開設し、大審院を置くことで行政権から司法権を分離する方針を示した詔勅を、当時の新聞が読者に如何に理解しやすく解説していたかを見てみましょう。
以下、非常に興味深い内容ですので引用します。
『さて皆さんに一言申置きます。今月十四日の、詔書を謹んで拝見されたと書置きましたが、よくよく聞き糺すとちんぷんかんぷんの寝言のように思って拝見もなさらぬ方が沢山有りますそうだが~』
何がなんだか全然分からないという読者が多いようなので解説しましょう、という書き出しで始まったこの解説は、以下の文章で見事に「民衆の本質」をつきます。
『為になることは申し上げなければ理が分からぬものと知りながら、やれ面倒だ、国は衰えても自分の家さえ繁盛すればいい、人は死んでも自分さえ達者なればいいという、尻の穴の狭い了見からして、政府で何を仰せ出されても、ヘイヘイ御上のご無理はごもっともさまと口を閉めて恐れ入って居たのが長い間のことなれど、それでは天朝と下民とは他人同様になり、人間と国とも他人同士となりゆき、いつか此国が強勢の国になるという目処がつきません』
以下、この国は天子様だけでやっていける国でもない、政府や一人一人の民衆の力が必要であり、みんなで色々知恵を出し合って国を良くして、外国に笑われない国にしよう、この国を誇るべき国にしていこう、と続きます。
……現在の国民は明治維新間もない頃の民衆の意識と同レベルなのか。
そんな軽いショックを覚えると同時に、当然のように以下のような絶望も覚えるわけです。
現在の新聞記者の意識に至っては、140年前の記者の足元にも及ばないのか、と。
(続く)