トレンド入りもした『#鹿目まどか生誕祭2017』の様子をまとめたよー!

[「血だまりスケッチ」関連紹介コーナー]

[時事ニュースコーナー]

希望の党」の第一次公認が出たことで大体「希望の党」の「性格」を把握できたので分析紹介。
まず誰もが知っていることですが、この党は間違いなく「小池百合子独裁政党」。バヨクの皆さんは「アベ独裁を許さない」とか云ってますが、それどころではないのがこの政党。
今でも小池百合子の都合の悪い発言をする議員に対しては速やかに「黙れ」の叱責が飛んでくるようですが、公認過程で分かったのは政策以前の明白な「お友達偏重」。
一番分かりやすかったのが岐阜一区。ここは元々自民党野田聖子の地盤ですが、共産党共闘態勢で民進の新人女性が出馬予定でした。この新人、明らかに左寄りでしたが希望への合流を要望。
で、主義主張で合流を拒否したのならばまだ分かるのですが、下った公認条件は「岐阜二区で立候補するなら公認する。一区なら公認しない」。
岐阜二区は自民現職が絶対的強い地域で元々民進は候補者を立てていません。空白地域といえばその通りなのですが、立候補しても本人の比例復活はまず望めない選挙区。比例票欲しいだけの、候補者本人は明らかに使い捨ての駒。なんのことはない、小池百合子と元々繋がりの深い野田聖子をアシストして将来の連携を見ええての出来レース
同じようなことは公明党議員の選挙区もそうであって、公明の議員の全選挙区で希望の党の公認候補を立てません。今回喧嘩する格好で都議会では与党を降りた公明党ですが、将来的に「よりを戻す」ための準備が丸わかりで狡猾と云うべきか、露骨と云うべきか。
次に分かった特徴としては、この政党は名づけるなら「都市保守」と称すべき存在を目指しているということ。この「都市保守」の対義語的な存在が自民党の「地方保守」ですね。
大阪(維新)と愛知と連携する「三都物語」という構想ですが、維新と共通しているのは憲法改正による地方分権の促進。
地方分権の促進といえば聞こえはいいのですが、実は希望&維新の云っている「地方分権」というのは「強い都市は強大に、弱い地域は切り捨て」の地方分権
先日も全国知事会で東京の大学偏重を改めて地方に定数分配しようという全国知事会の提言を小池百合子が散々罵倒した挙げ句「役人上がりの知事はこれだから」と公言したことで全国各地の知事と喧嘩になっているそうで。
要するに東京や大阪、愛知など周辺地域から自然に人口も金も流れ込んでくる自治体は栄え、そうでない地域はどんどん衰退を早めていけ、というのが希望&維新の基本思想。
勿論、各自治体に自助努力が求められるのは当然ですが、何十年にわたって吸い取られてきた地方に最早そんな余力はなく、費用対効果が認められる独自の政策立案はほぼ不可能。
で、とち狂った地方が「中国・韓国と連携を」とか云って地方空港に税金つぎ込んで中韓を呼び込むという悪循環も既に生まれているわけで。
ともあれ「政治思想としての保守・リベラル」という構図で成立してきた対立が今回の一件で解消されたと思ったら、今度は「都市VS地方」という新しい対立構造が近未来に予見される政治状況かと思われますが、問題はその辺りの認識を民進から加わった地方の議員が理解しているとは思えないというところ。
勿論民進出身者の大半にとっては「議員になることが目的」であって主義主張は二の次、というのが今回の騒動で丸わかりになったのはある意味「収穫」でしょうが。
で、総括すると、小池百合子の主義主張、政治姿勢、態度にどうにも既視感があると思ったら、何のことはない豊洲の問題で散々批判していた石原慎太郎そのまんま。
政策的に違う点は男女別姓促進&原発ゼロくらいであって、その他は言葉の表現の違い程度であって殆ど変わらない。
もっと似ているのが「周囲の云うことをまるで聞かないという政治姿勢」。
恐らく維新と合わせれば百前後の議席はとるのでしょうが、国会運営とか党首討論とか、テレビの報道番組とか、希望の党の議員が自分の意に沿わない発言をしたらどうするつもりでしょうか?
今までの通り「黙れ」で済むわけはなく、かといって政党の細かい綱領は皆無に等しい政党で何がセーフの発言で、何がアウトなのかいちいち小池百合子にお伺い立てる気でしょうか?
 というか、当選するまでは静かでしょうが、当選後、民進出身の議員が黙って云うことを聞いているとは到底思えないわけで、早晩分裂するのが目に見えている訳ですが。
本人的にはこのまま今回は出馬せずに、次の次の選挙あたりで総理を狙う気だとは思いますが、果たしてそれまで希望と云う政党が残っているのか、甚だ疑問なところです。

[時事ニュースコーナー]

【第6回】本朝新聞事始め(弐)
世間一般の方は、新聞紙面に掲載された記事が事実であることを疑いません。これは我々が“新聞は客観報道を旨とするメディアである”と教えられてきたからです。
それでは、まだ新聞が誕生した当時、虚実ない交ぜだった江戸期の瓦版の伝統がまだ生きていた明治初期、如何に新聞は読者の“信頼”を獲得していったかが今回のテーマの序となります。
1874年12月4日の読売新聞からの紹介です。
「今月九日御前十一時に金星といふ星が、太陽の前を通過、午後三時四十五分に終る故、太陽の前に黒点のようなものが見ゆるといふ」という金星蝕の記事を載せ、これに科学的な説明を加え、かつ「世間ではこんな現象が起こると不吉の現れと騒ぐが、そんな馬鹿なことを信じてはいけません」と、読者を啓蒙しています。
明治の新聞に現在で云う投書欄が既にあったのですが、後日この投書欄に「確かに新聞の云う通り見られた。とても感動して、新聞に感謝します」という記事が載ることになりました。
初期の新聞が繰り返したのは、愚直なまでに事実を書き、紙面への信頼を高めることだけでした。
勿論、通信手段が発達していなかった当時のことですし、当時の新聞は投書欄の読者からの情報を元に新聞記事を作っていたくらいですので、虚報・誤報も多かったわけですが、当時の新聞社はただ虚報を詫びるだけではなく、それが本当に虚報かどうかの裏付けまで取ろうと、誌上で情報募集などまで行っていました。
これはただ情報の真偽を判断するだけではなく「新聞に掲載される言葉は、指示する対象と正確に対応して必要があるのだ」という認識を、読者にも共有して貰いたいというメッセージも含んでいたのです。
これらの努力の末「新聞の言葉は指示世界と対応する透明な媒体なのだ」という観念を、読者に共有させ、同時に「言葉が世界を写す道具である」という認識を、新聞を通じて世間に広げていったわけです。
そしてその結果、新聞紙面に記された記事=社会的な事実、とみなされるに至ります。
もっとも、外交上重要な案件や戦時体制下ではこの理念通りに運ばなかったわけですが、概ね、読者はこうして新聞を「真実を写す媒体」認識していったわけです。
ですが、その結果。
新聞の情報を鵜呑みにするようになった国民は、ロシアとの戦争継続を求め、満州進出を国の生命線だと信じ込み、鬼畜米英を打倒しなければならぬ!  と戦争に突き進んだわけです。
勿論、それに対抗した勇気ある記者たちもいました(一部「政治的意図による反対」を叫んだ記者たちがいるのも事実ですけど)。そして政府内部で軍部の力が絶大だったことは確かです。
しかし、それでも結局新聞は最後まで国民を負の方向に煽ったことは事実であり、煽られた国民が更に過激な方向に突き進んだ結果が、太平洋戦争の悲劇です。
どうにも昨今、戦前を批判する人々の論法が一様に「戦争に突き進んだ軍が全て悪い。国民は一方的な被害者だ」でまとめられ、思考停止しているようにしか見えません。
彼らはひょっとして、戦前の日本が立憲民主制であったことを理解していないのではないか? そんな疑いすら持ってしまいます。
(続く)