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【第9回】戦争とマスコミと民衆(前篇)
現代の日本人の殆どが忘れ去ってしまっている外国人がいます。
彼の名前はフランシス・ブリンクリー。
生まれはアイルランドの名門貴族。祖父は著名な天文学者、祖母はフランス王室の後裔、従兄弟は香港総督という超エリート。
1867年に日本公使館付武官補並びに守備隊長として赴任し、以降45年間、二度と母国に帰ることなく、この日本に骨を埋めます。
来日直後、彼は武士同士の果たし合いを目撃することになりました。
この光景を目撃したことが彼の人生を、そして大袈裟に云えば、日本の未来をも変えることになりました。
彼が目撃したのは、武士同士の一対一の真剣での果たし合い。
これだけでも騎士道精神遠ざかり幾星霜のヨーロッパ人の彼にとって衝撃的なものだったでしょう。
ですが、彼が心を奪われたのは、その果たし合いが終わった直後の光景。
それは果たし合いに勝利した武士が、たったいま己が斬り倒した相手の“ものいわぬ身体”に対し、自身の羽織をかけ、跪き恭しく合掌した姿でした。
その姿に感銘を受けた彼は、その生涯を日本のために捧げることになります。
彼はイギリス公使館付きの職務を離れ、明治政府の海軍砲術学校で教鞭を執りました。
この海軍砲術学校在任時、西欧に倣い彼の教え子たちが学校で開いた競技会、競闘遊戯会こそが、日本で初めての「運動会」です(ちなみに当時の海軍卿勝海舟)。
また彼は英国人としては初めて「正式に」日本女性と結婚した最初のイギリス人でもあります。
当時英国の法律では日本人との結婚は認められなかったところを、英国法院に訴え、見事その権利を勝ち取ったのですす。
海軍砲術学校、更に工部大学校で数学の教鞭を執った後、彼は新聞を創刊します。
「ジャパン・メイル」
日本の名を冠したその英字新聞は、日本とその文化を広く紹介し、ひいてはその支持者を集めていくことになりました。
そして日清戦争では講和会議にも立ち会う立場に立ち、以降ロシアとの対立が深まっていく最中、彼は日本を擁護すべく立ち上がります。
彼は「ロンドン・タイムズ」の日本通信員となり、日本の主張を、日本の文化と共にヨーロッパに伝えることに奔走します。
ロンドン・タイムズに掲載された軍事通信と「日本武士論」は特に有名でその記事は、ロシア皇帝ニコライ二世をして『初めて日本を深く研究しなかったロシア国内の開戦論者たちの、軽挙妄動を概嘆する』とまで言わしめたという伝説まで作りました。
条約改正、日英同盟、そして日露戦争の講話締結さえ、彼の努力に負うところが少なからずあったといいます。
そう、彼がマスメディアを通じてなした主張が、日本の未来を確かに変えたのです。
フランシス・ブリンクリーは激動の明治を駆け抜け、明治の終わりと共に、つまり大正元年、71歳でこの世を去ります。
ブリンクリーに僅かに先立ち自らこの世を去った人物がいます。乃木希典大将です。
乃木大将の明治天皇への「殉死」を、あるアメリカ人が「乃木は発狂したのだろう」と云ったことを令嬢から伝えられたブリンクリーは憤り、自らも死の床に就いているのを押して――「四十余字に数時間を費やして」ロンドンタイムズに打電しました。
口授によるブリンクリーの「乃木将軍論」。これが彼の絶筆です。
かけがえのないこの恩人に日本政府は勲二等旭日重光章を贈り、その葬儀には当時の貴族院議長徳川家達(徳川宗家第16代)、外務大臣内田康哉海軍大臣斎藤実(後の首相で、ブリンクリーの教え子)らを参列させ、長年にわたる日本への友情に深甚の意を表しました。
『来日した途端、欧州の中古時代に似た風物にまず驚きの目を見張り、次に完全に魅了された。そして哀心から日本に愛着を感じた』
これが研究者の伝えるブリンクリーの言葉であり、彼が生涯を通じて抱き続けた望みは、次のようなものでした。
『日本の武士道そのままに生きたかった』
……さて、ここまでが「表」に出てくる、いわゆる「美談」のパート。
ですが、以降「一般には語られない」影の部分。
彼の子供ジャック・ブリンクリーの激動の、そして戦前日本の軍部、マスメディア、そして民衆の「恥ずべき行為」については、次回に。
(続く)