【雑記】キムリアと自己責任論

さて、偶には自分の元々の専門の真面目な話を。
本日の新聞誌面に載っておりますが、薬価収載が既に決まっていた急性白血病の免疫治療薬「キムリア」の薬価が3349万円と決まりました。
これで国民皆保険制度を採用している日本において、キムリアは保険適用症例に合致する患者ならば誰でも使える薬となりました。
こんな莫大な価格ですが、日本の保険制度には「高額療養費制度」がありますので、その人の所得にも応じますが、ベット代などを除く純然たる医療費の本人負担は月10万もかかりません。後は全部実質税負担となります。
便宜上薬と書いていますが実はこのキムリア、薬ではありません。
簡単に仕組みを説明すると、急性白血病患者患者から採取した免疫細胞(T細胞)にキメラ抗原受容体(CAR)を発現させる遺伝子改変を施した後に患者体内に戻します。
するとキメラ抗原受容体は白血病細胞が発現するタンパク質と結合し、白血病細胞を攻撃。最終的には死滅させることで急性白血病を治します。
このキムリアが認可されるにあたっての国際共同治験の成績が凄まじいです。
普通の急性白血病より更に状態が悪く、骨髄移植しか助からないとされる再発性急性リンパ性白血病患者50人中41人の白血病細胞が消失しました。
これは信じがたいレベルの偉業です。奇跡の治療法です。
アメリカでさえ一例あたり約5000万という高額費用が問題になりましたが、製造メーカーのノバルティスファーマのこの提案で解決することになりました。
「患者が治った場合のみ費用申請する。治らなかったらゼロ円でいい」
このキムリアが異常に高い理由は元々莫大な開発費用が掛かっている上に、とどめは上記のとおり「患者一人一人の細胞に応じて遺伝子改変を施すため」です。
というわけで治ろうが治るまいが莫大な費用は発生しているわけですが、それでも「治らなかったらゼロ円でいい」と提案できるほど絶対的な自信をノバルティスファーマはもっているわけで。
ちなみに日本では薬価制度でも保険制度でもこのような「成功連動報酬」制度は認められていませんので治ろうが治るまいが薬価は支払われます。
将来的には遺伝子改変も安価になり薬価も下がるのでしょうが、現時点では莫大な費用が発生します。
ですが、最初に書いたとおり日本の保険制度には「高額療養費制度」がありますので、キムリアの場合かかった費用の本人負担はほぼゼロのようなものです。


で、何故自分が今回突然こんな真面目な話を書いてるかと云うと。
ネットを巡回すると「そんな馬鹿みたいな費用を保険でやるな、自腹でやれ!」という声が溢結構あったからです。
自分、事務屋(用度メイン)ですが医療現場が長いので馬鹿みたいに高い医薬品や診療材料、医療機器は散々見てきました。
それで思い知ったのですが、日本の保険制度は本当に国民に手厚いです。
かつて「手厚すぎて財政が崩壊する~」と所謂「医療費亡国論」が湧き上がったのもある意味、理解できます。
ネットが普及した最近でこそ「北欧の医療制度は素晴らしい。それに比べて日本は~」という馬鹿マスゴミの悪質な煽動は減りましたが、自分がこの仕事に就いたころにはそんな言説が溢れてました。
ちなみに未だに一部の日本のマスゴミが理想郷のように囀るスウェーデンですが、ネットの普及のおかげで実態が分かってみるとなんのことはない。
国民は「教育」されているので滅多なことでは医者にかからない。「教育」されているので終末期にも「無駄な医療費」を使わない。
医師の待遇は確かに天国で、夏には長期バカンスにも行けて外国からも続々と医師が流入している一方。
医師が患者に合わせるのではなく、患者が医師の都合に合わせるしかないので患者がかかりたいときに医師にかかれない。
上記のように「教育」されている国民なので医師にかかろうとしているときにはそれなりに症状が悪化しているにもかかわらず、です。
ちなみに同じく福祉国家として名高いイギリスはもっと徹底していて、イギリス人は病気になるとまずその地域の医師を検索します(そういう独自システムがある)。
その医師の評価が食べログの評価みたいに公表されているのは笑いどころかもしれませんが、ともあれ特定の地域内の医師にまずかかります。
で、その医師によって「もっと大きな病院にかかる必要がある」と認定されて初めて、患者は大学病院や大きな専門病院にかかることができます。
日本のように「誰でも好きな時に好きな病院に罹って、医師はその患者を診る法的な義務がある」国なぞ存在しません。
それでも「救急車のたらいまわしが~」という声があるかもしれませんが、それは医師や看護スタッフの人数的に物理的にみられない場合であって、いつまでも待てるというならば受け入れることは可能ですし、受け入れる義務はあるのですが、その間に患者の症状が悪化しては困るので「他の病院に行ってください」といってるだけです。
更に云うと救急患者を受け入れたはいいものの診察の結果、専門の医師の治療が必要と判断され、一生懸命転院先を探したものの転送が遅れて患者が亡くなったという事例において、裁判所が「受け入れた以上責任を持って治療を施す必要がある。患者の死亡原因は病院のせい」などという狂った民事裁判結果が出た結果でもあります(流石にこの判決には全国の病院関係者が慄然とした。十年以上昔の話ですが)。


閑話休題
で、キムリアの話に戻りますが「自腹でやれ!」という書き込みとその論拠を見ると、最近ネット界隈で溢れるベーシック・インカム論者と同じ臭いがします。
大体彼らの意見を集約するとこんな感じになります
「毎月国が一定額を支給するので福祉も介護も生活保護も現行制度を全部廃止。全部自己責任でいい。
 公務員の人件費も削減出来るから人件費削減にもなる。
 毎月一定額が保障されるので生活が安心して消費も盛んになり、景気も良くなる」
さて、ここで問題です。
ベーシック・インカムが導入された世界において高額療養費制度は存続し得るでしょうか?
一応自分も財務省の予算解説などを参考に試算したことがありますが、国民に一律8万程度配布するとなると、現行の医療、介護、年金、生活保護を全部なくし、更に削減しうる公務員の人件費を現行の25%程度分程度に見込むと「予算の上では不可能ではない」数字にはなりました。
ですが、当然そのベーシック・インカム制の採用された世界では「高額療養費制度」を存続させうる予算はありません。
つまり全部自腹です。
「そういう時に備えてアメリカと同じく民間保険にかかればいい」という方は一体月額いくらの保険に入るつもりでしょう?
アメリカのドラマを見てればそれなりに見かける場面ですが、作中人物が医者にかかる前に保険会社に電話します。
で、保険会社と色々相談、というか保険会社から「指導」を受けて「治療の範囲」が決められます。
で、ドラマとしては金が払えずにアメリカの医療制度に絶望した主人公が・・・という流れは定番と云えるでしょう。
勿論高額の保険料を払っていれば高額の治療を受けられますが、キムリアの治療を受けられる保険の月額費用は一体幾らでしょうか?
誓って云えますが、ベーシックインカムで貰う費用より遙かに高額になる筈です。


で、ここまで論を進めて改めて「キムリア自腹論者」やベーシック・インカム論者の方に問いたいのですが。
あなたは自分にとって「自分より大切な誰か」が「その薬さえ使えば助かるのに金がないから使えず見殺しにするしかない」という事態に陥った時、どうなさるおつもりでしょうか?
自分一人の話ならば「自分が死ねば良い」で解決しますが自分以外の「自分より大切な誰か」についてはそういう訳にはいきません。
その「自分より大切な誰か」にも「死ねば良い」と云えたらそいつはただのサイコパスの類いです。
繰り返しますが、現行の日本の制度であれば誰でもキムリアを極めて安価で使えるのです。
ぶっちゃけ財務省の官僚はこれからも次々と登場する高額医薬品は国民皆保険制度の例外としたいのです。政治家と有権者という国民がいなければそのようにしたいのです。
実際このキムリアの治療法は他の癌にも転用出来るので既に別の癌への臨床研究が進んでいます。
次に適用となるのは恐らく悪性リンパ腫だと云われています。
急性白血病にせよ、悪性リンパ腫にせよ、放置しておけ死亡する可能性が極めて高く、キムリア以外の現行の治療法では治らない患者が相当数いるのです。
で、放置しておけばかなりの高確率で亡くなるそれらの患者がキムリアを投与さえすれば助かる確率が極めて高いのです。
一応云っておきますが別に自分は「人の命は地球より重い」などというつもりはありません。
一定程度の高齢になったら本人が望まない限り高額となる終末医療を施すのはどうかとは思います。
ですが、キムリアが当初保険対象とされるのは主に25歳以下の若年層になる予定です。恐らく悪性リンパ腫の適用もそうなる筈です。
・・・もっともオプシーボと同じでどんどん適用対象が広がると想定されるので、財務省の懸念が分からないわけではありませんし、何らかの制限をつけないと日本の国民皆保険制度が崩壊しかねないのは事実ですが、それでもベーシック・インカム論者のように想像力の欠如のままに現行の日本の福祉制度を否定する論には到底賛同出来ません。
ただ現在の癌研究の最前線の記事を色々読むと、これからは「一人一人の個人に応じたオーダーメイドの癌医療」がメインになることは間違いないようです。
それが国際標準となって科学の進歩によって治療が(現行よりは)安価になるのが先か、日本の国民皆保険制度の財政が破綻するのが先か。
願わくば前者であって欲しいと思っていますが・・・さて。